格差について思うこと
先程、テレビで総裁選に関するニュースを見た。
岸田氏は令和版所得倍増計画。
高市氏は企業への資産課税。
野田氏は同一労働同一賃金。
いずれにせよ、中間層の拡大と格差是正を謳っているようだ。
所得拡大は結構なことだが、彼らはその元手を企業から出そうとしているらしい。
企業から資産が減るということは、我々株主への配当の減額につながるようにも思える。高市氏など、資産収入への増税まで考えているそうではないか。
社会では金融資産に関する格差、性別の格差、地域の格差などは話題になるが、
能力の格差、性格の格差、体質の格差、こういうものは話題にならない。
政治家が票を集められる、耳触りのよい、多くの人に共感を得られるような格差の弱者はそうでない格差の弱者より幸福である。
なぜなら前者の方が、世間からの同情を買い、救われる見込みがあるからだ。口だけでも、なんとかしようとしている人間がいるのは嬉しいものだ。
だが、私のような者はどうしたらよいのだろう。
私は金融資産についてはどう世代からすると、明らかに強者である。
性別も強者側と言われる男性だし、地域も山の中のような限界集落などではない。
世間で話題になるような格差についてはどちらかといえば強者なのだ。
しかし、私はとても生きづらさを感じている。数少ない友人を除いて人間関係もうまくいっていない。会社では孤立しがちで、出世の目処は立たない。体格は悪く、体力は無い方だ。そしてこの陰気な性格。
私は労働能力、人間の中で生きていく能力に劣っている。能力格差における弱者である。しかし能力格差、能力主義という言葉は最近マイケル・サンデルによって一瞬話題に挙がったのみで、世間には全く注目されていない。この格差が是正される望みは今のところ見当たらない。
私は能力の弱者であることを資産の強者であることで補おうと考えて、
熱心に資産を形成してきた。これを是正しようというのは私の希望を断つのと同義である。
金融資産の格差があるから私は生き残れるのだ。格差是正された社会で待っているのは、私の弱点でしか戦えない世界なのだから。